お決まりの日々?

モモの節句でございます。

宙『誰がために鐘は鳴る』 (その2)

本日11時公演を見てきました。その1の続き。


辛口です!


<感想>


 舞台と客席の距離が遠い。中央にスーパーリアル巻き込み型女優=ののすみを配しているというのに、まるで遠雷を聞いているようだった。

 仕事、仕事、と本来の職である大学教授を放り出して、理由は語られぬスペイン愛で、命がけの爆破工作勤しむイギリスさんの、協力者であるゲリラへの台詞は、「仕事、仕事」と家庭を顧みず仕事に没頭するお父さんのようだ。しかし、舞台上で表現される本人の行動と言えば、寸暇を惜しんで、ゲリラのアイドル的存在の女性とべたべたするばかり。

 「死」「死」と煩い。

 一幕のラストが、協力者のゲリラが襲われ、全滅した!ところで、舞台上で絶叫し、その死を悼むシーン。
 人がたくさん死にました、じゃ、休憩、お食事をお楽しみください、の演出家の神経がわからない。
脚本通りかもしれないけれど、しんみりとするとか、その犠牲を無駄にしない、必ず俺たちは作戦を成功させて見せるの覚悟固めのシーンなら、気持ちが続くんだけれど。
 「戦争は悲惨」「戦争は何も生み出さない、ただ奪うだけ」を訴えたい演出故なのでしょう。
(減収しているのなら、公演ランチを食べながら、次のシーンを語りたくなるような一幕のラストにしなはれ)

 二幕の最初が、回る風車に回るヒマワリ。前公演の「おーふぁんきーさんしゃいん」が思い出されて笑えました。
 一方ライトを受けて光る、白いシャツ、は良い演出。

 絵は二次元、彫刻は三次元、舞台はそこに「時間」が加わった四次元の表現でしょう。

 美術セットは照明でがらりと表情を変えます。だから演出家や監督も照明がわかっている人でないと。

舞台美術家朝倉摂さんの言葉(週刊文春 2010.10.7号 新家の履歴書(210))を思い出して、やるなあと思わせたり、回るヒマワリにあちゃーこれは、空飛ぶ棺桶中村某の舞台だったか、ファンキー石田の作だったかと疑わせたりとちぐはぐ。


■男のロマン。男は死して、何かを残す。

 マサツカ先生の好きそうな、男のロマン系?
 両親を銃殺され自身も残虐な性的暴行で心を殺され体もボロボロになった少女に、恋の喜びを生じさせることで「生きていてよかった」とまで言わせたのに、本人は彼女のそばを「死」という形で4日後に離れると、彼自身はわかっている残酷さ。

 少女の心は、三度殺される。三度目の死はロバートの死別だ。
 後を、彼女を大切に思うあまり、彼女に恋心を悟らせず、仲間にもちょっかいを許さなかったアグスティンに託して、男は一人、死と向かい合うのだ(♪ダダーーン)的な。

 私は、絶対領域に感動できる(男性的)趣向も持ち合わせているが、リアリストな女でもあるので、
『ジブシー男爵』の「愛しているなら死ぬな。生きて帰ってきて、私の元に」という方に共感する。ただ、人間「自分の命が大事」の利己主義だけでは、社会が成立しない。ホンネだけでは、皆と何かを作り上げることはできない。他人と仲良くするにはタテマエという美しい理想が必要で、そのために個々の努力と個々の犠牲がいることは理解している。公共の場を秩序のある状態に保つには、それぞれの我慢が必要で、今朝の電車のように、始発駅から、乳幼児が絶え間なく絶叫し続け、他の客の方がたまらず別車両に移っていっても、30分を超え子供が床に転がり手足を振り出すまで下車しようとしなかった人が当たり前になれば、秩序ある社会は成立しない。
(両親と子供三人と見える一家は、途中で父親が乳児を抱いて下車し、他メンバーは8分後終着駅で降りました)


■「○○なんて、くだらねーー!」
(問)○○に入る言葉を選びなさい。(1)せんそー (2)がっこー

 本作品の演出家のように、
「戦争反対。だから僕はその悲惨さを、吐き気を及ぼすまでに見せつけて、
 戦争はよくないことだと声高らかに歌い上げ、戦争を撲滅させよう」
という意見に、私は同調できない。
 いじめはよくない、いじめは悲惨、と知らない人は、日本に住む人にはまずいないと私は信じたい。
テレビでも、いじめが生まれる悪者探しを含め、熱心に報道し続けられている。
 にも関わらず、夢を歌う宝塚歌劇の担い手である、音楽学校で、
96期性が気に食わない同期生を軟禁し、万引きなどの罪をねつ造し、それに音楽学校側が加担し、同級生を退学に追い込むような陰湿な犯罪が発生し、裁判沙汰になった。
 さらに、その犯罪者に大劇場のヒロインを任せる、などの、信じられない実態が、現在進行形で行われている。
 フィナーレで、ののすみさんが大きな羽でかわいらしく登場したのを見、次公演では、いじめ監禁犯の人が、ダブルヒロインとはいえ、主演娘役相当の大きな羽を背負ってふてぶてしく表れると思うと、気持ちが萎えた。
(電車の中のポスターだけで相当嫌な気持ちにさせられているのに)

「いじめはよくない。いじめは悲惨。だからいじめをやめましょう」
でいじめがなくならない以上に、さらに多くの利害関係がからむ戦争を無くすのは難しい。
「戦争はよくない。戦争は悲惨。だから戦争はやめよう」と繰り返す想像力の貧しさを、私は哀しく思う。

「戦争なんて、くだらねーー!!」
とアグスティンが、後方支援のためと残るイギリスさんの元を離れるときに、トートツに叫ぶ。
 彼の仕事はゲリラ。4日前から懇意にしていたイギリスさんとともに逃げられないとわかったからと、職業軍人が、自分の仕事を否定してどうする?
 学ランで髪を盛り上げた不良高校生が、
「勉強なんて、くっだらねーー!!」と、学生であるのに、彼の本分を否定するような場面だった。
 高校生ならいいんだけれど、他人の命を職業として奪ってきた人に言われちゃうと、困ったなあ・・・・・・。


■恋はエネルギー、恋が生きた価値を作る

 死がすぐにそばにあるから、生を実感できる愛を感じたい、という気持ちはわかる。
 種保存本能に加え、残された70時間を、70年に匹敵するほどに濃いものにする。彼女の存在があれば、彼女との恋があれば、それが可能だと、主人公が意図をもって、対象であるマリアとの恋に飛び込んだのだから、寸暇を惜しんで愛情を交換するのに不思議はない。

 自分の(人生の)価値は自分で決めるもの。(仮面ライダー000の主題歌ではないが)
 所詮は自己満足。
 彼が、70時間を70年分の濃さで生きた、幸せだったと満足して死ぬのはいいが、そのために他人を巻き込むな。自己完結の自己満足にしてくれ。(自分の尻は自分で拭け)

 彼女と自分は、彼女が鼓動が重なった時にも言った「一体」だから、彼が死んでも彼女が生き延びれば、僕も一緒に、つまり結婚成立、と彼女の未来も縛る気なのかしら?
 その時のムードに酔っている人みたいに見える。本人は大変幸せそうだけれどね。


■約70年前のアメリカでの男女関係、暴力

 映画ですら1943年公開。今から67年前の、アメリカの男女関係がどうであったのか、私は知らない。
 だが、結婚するにあたって、女は男に、男女関係も含め過去のすべてを告白するべきであり、男にはその必要がない、ことは作中で記された。
 ロバートは、マリアに彼の過去を一切話さず、彼が戦地に残ることを彼女に言わないという「隠しごと」が、「俺からの結婚の贈り物だ」と言って、満足の死を迎える。

 マリアは結婚するのだから、自分の過去を知ってもらわなくては駄目、と、ロバートが怒りで相手を殺したくなるから聞きたくない、と言っても強要する。
 しかも演じるのは、リアル演技派のののすみ。まるで先ほどその行為が行われたような生々しさで、彼女は自分の受けた集団暴行シーンを、二度三度、止めようとしても語ろうとする。
「私、必死で抵抗したのよ。なのに猿轡をかまされて、両手を頭の上で縛られて、そして大勢の男が…」
「止めないか!」たまらず、イギリスさんは叫ぶ。彼の心は、ウサギちゃん(マリアのラブネーム)に酷いことをしたファシスト軍への怒りでいっぱいだ。

 さらに、「私穢れているのよ。もう嫌になったでしょ?」と、相手が「そんなことがあるものか!」と答えるのを期待して、甘える。
 実際、イギリスさんは「もっと好きになった」と彼女が求めている以上の愛で応えてくれた。
 もし彼女が「汚い、僕に触るな!」と拒絶される可能性を考えていたら、過去を話す前に「キスしたいけれどキスの仕方がわからない。だって鼻が邪魔でしょ」なんて言えない。自分は穢れていたとしても、彼が受け入れてくれると信じているから、もしくは、彼は、彼女の心を殺したくないと、自分の心をごまかしても彼女を受け入れると、「期待して甘えている」ように私には映った。

 先輩は、自分の悲惨な過去を打ち明けることで、彼の愛を試したのではないかと言われた。相手の愛を「試す」行為は、ゲームとしてアミューズメントとして楽しいかもしれないが、愛を交わす行為ではないよ。

「相手を疑う」から「試す」、受け入れてくれると思っているから「甘える」。どちらの行為も、あまり美しいとは私は思えない。

 原作も映画も未見であると書いたが、この映画、本当に売れたのか?と気になって、映画のレビューサイトの点数を見た。
 その一ページ目にあった感想で、映画では、性的暴力の部分は「髪を切る」という描写で象徴されたことを知った。映画でも控えた表現を、夢を見たい女性が主たるターゲットである宝塚歌劇で、あえて、繰り返しヒロインに生々しく再現させる、それがキムシン。
 ……しびれるが、あこがれの反対の部分の感情でである。
 短い髪を恥ずかしがる、その髪に触れたいと言われて喜ぶ、ファシスト軍に両親を殺され娘たちは集められて髪を切られた、その表現で十分、女性としてひどい仕打ちを受けたと、言葉にしなくても伝わる。

 キムシンは『虞美人』でも被害者にレイプ状況を何度も説明させる、何度も暴行を受けた自分は穢れている、貴女の妻にはふさわしくないと言わせ、「それでもあなたが好きだ」と言わせる演出をした。彼の作品にはなくてはならないこだわりエッセンスなのかもしれないが、どうか宝塚歌劇の外で打ち出して欲しい。

 私は、マリアの心は殺されて、回復途中にあると思っているから、彼女がどんな行動を取ろうと、
心が壊れているのだから仕方がないと思う。たった三か月前の惨劇だ。
 この原作が書かれた時分はPTSDの概念はなかったはず。
 そのような仕打ちを受ければ、男性とみれば、暴力をふるわれるとおびえるか、(もう大事にしようという気持ちが起こらない)自分の体を武器に身の安全を確保しようとする状態であっておかしくない。
 マリアが変におびえた様子を見せないのは、アグスティンやピラール達が、ボロボロの状態のマリアを保護し、マリアを男どもの欲望からも守り、彼女に安心できる場所を提供し続けてきたからだ。
 安全を確保されるだけでは、彼女に「生きていてよかった」と思えない。
 心が動かないから、生きている喜びが湧かなかったのだろう。

 恋をして、そのエネルギーで心に灯がともった。
 でも、心が壊れているから、告白によって相手が受ける衝撃を考える余裕がない。
 自分の重荷を、自分を愛しているなら受け止めて、と相手に押しつけることができる。

人間昆虫記 (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)」で、ヒロインの実らぬ恋の相手である水野の、妻になった女性が喀血する。
 芸者であった彼女に、無茶苦茶をやって堕胎を繰り返させ、店に上がれなくなったら、給料も与えずこき使った男のせいで体を壊したのだと、女将に聞かされた水野は、「殺してやる!」と行動に及ぶ。
 それほどの衝撃を与えるものなのだと思う。
 自分のつらい過去を、相手に背負わせることを強要するのは美しくない。
 自分は、相手との幸せな日々の中で、過去のつらさが薄れるときがあっても、聞かされた相手は、その人が思いやり深い相手であればあるほど、愛する人のつらい過去に苦しめられる。

 マリア自身も、結婚する相手の、ロバートの女性遍歴を聞きたいだろうか? ほかの女性はこうしてくれた、と聞かされて、嬉しいか?
 その人は過去の人、今は私を見て、と思わないだろうか。
 彼の胸を顔をうずめながら、同じ行為をした過去の女性の幻影を見て、楽しいか?

 好きになった女性が、AVに出ていたとわかって、そのビデオを楽しみたいと男性の方が、少数派だと思う。ましてや、同意のない暴力である。その状態を生々しく想像させることは、特殊な性癖の持ち主でなければ、苦痛以外の何者でもないだろう。

 また、相手の過去を知りたがる行為は、相手を自分の所有物に思っているようだ。
 ○○産のルビーで、カットは△△で、前の持ち主は□□、とアンティークジュエリーを求めているような、奇妙で不快な感じがした。
 そこに、いればいいじゃないか。
 くしくも彼が、彼女が彼の妻になったら~してあげる♪と歌うのの、最後、そばにいるだけを一番気に入ったというように、何かをしてくれるから、その代償として、好きになるのではないのに、ちぐはぐだ。


■たった4日の話なのにわかりにくい

 マリアは壊れている人だから、何をしてもおかしくないのだけれど。
 この物語に入り込めないのは、物語の舞台背景など何も説明されないのに、誰かが敵に通じている、とか、他ゲリラも入り混じって、固有名詞がやたらと出てきて、わかりにくいうえ、人物の心情も分かりにくい。
 せめて、物語の中心のゲリラは腰ひもが赤で、隣のゲリラは緑で、と、テロップが出せないのなら、工夫してくれないかなあ。


■思いだしたこと(今日ずっと思い出していたことなので、載せます)

 見ながら、昨日『ぼやきくっくり』様で読ませてもらった月刊「WiLL」2011年1月号掲載の西部さんの論説の、締めの部分を思い出した。
 その一部を、孫引用。

 僕がはっきりさせたいのは、「戦争によって大勢の人が死ぬことを認めてはならない」「人が死なないほうが良いに決まっている」という説こそ、というよりそれを原理とする人間観こそ、人間を堕落させる腐臭を放つ思想の原点であるということです。

 生命第一主義、あるいは生命史上主義ほど人間をダメにする、ましてや国民精神をダメにする思想もありません。生命が、すなわち生き延びることが最も大事だとしてしまうと、人間は生き延びるために人を裏切ることも、嘘をつくことも、臆病風をふかすことも、不道徳のかぎりを尽くすことも、何もかも許されてしまう。
 僕は単に嘘をつくことや、不道徳を働くことがダメだと言っているわけではない。命が一番大事だと言っている人間も必ずいつかは命をなくす。したがって、生命第一主義者たちの存立基盤がなくなり、自分が生きていることの意味もなくなる。そんな君たちは何者なんだ、はたして人間なのか、と問いたいのです

引用した最初の段を、キムシンの戦争はよくない主張の手法に対する批判のように受け止め、中の段に、命を大事に思うあまり、臆病に吹かれ、仲間の作戦を妨害してしまったパブロを今朝の電車の車両を自宅のように過ごしていた親子など、公共の場での振る舞いを思いました。

 この(山本常朝『葉隠』の)二つの文章を結びつけるとこうなる。

 「人生はまことに短いから、命を賭すほどの最高の価値はなかなか見つからないかもしれないが、最高の価値を見つけることが一番好きだと構えてこその人間なんだから、それを見つけるべく暮らしなさい」と。
(中略)
 そこで最高の価値は何か、死を賭すに値する価値は何か、それを見つけることこそが一番の好きなことだと構えてこそ、名誉ある栄えある生き方ではないか。それが見つかれば、あるいは見つからないまでも、どうもこういうものではないかと思えるまでに至り、たとえある条件が押し寄せてきて、それが戦争であったり、革命であったりしても、敢然と引き受けることができる。ただし、絶対的な価値かどうかは神のみぞ知るところであり、いつまでもあれこれと考えても神様にはなれない。ならば、とりあえずはそれらの戦いを正戦として受け入れて、可能ならば命を懸けて死んでしまえという生き方がこそが、最も活気があって楽しい生き方だ

命を賭すほどの最高の価値を、スペインへの愛ゆえの「仕事」と、そこで出会った少女との恋(プライベート)に求めたのが、ロバートだと思いました。この部分から、戦争は「反対」と叫んでいても、「悲惨だ」とわかりきったことを主張しても、発生してしまうものと、感じます。どちらの側にも「正義」があり、相対的な暫定的価値はその時の戦勝国が決めるけれど、絶対的な価値は神様にしかわからないのだもの。

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たまり(ょ)

Author:たまり(ょ)
『マイメロ』の柊恵一さん中心感想や、奈良大淀病院事件の傍聴記録を書いていました。

現在は、感想や日記を時々。
スポットライト(好きな人しか目に入らない視野狭窄)状態で、片寄ってます。

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・「某Oさん」や「花柄の君さま」などと表記させていただいている声優さんのファンなので御出演作♪
『おねがいマイメロディ』シリーズ(終了)
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宝塚歌劇感想
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・医療破壊に関しては涅槃の境地にいけたらイイナ♪
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